「あらまほし」は吉田兼好の『徒然草』によく出てくる言葉だ。
いまの言葉でいうと「こうありたい」とか「望ましい」とか「憧れの」いう意味。
だから、「あらまほしき日常」とは「毎日がこうだったらいいな」とか「憧れていたのはこんな暮らし」ということかな。
人生も終盤にさしかかり、長いこと不自由な入院生活をしていると「あらまほしき日常」とは何だろうと考える。
ボクにとってのあらまほしき日常は、心おだやかに暮らせる家と、季節を感じられるささやかな庭のある暮らしだ。
もちろん、愛する人と愛するものにも囲まれていたい。
兼好法師は「朝夕、無くて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞ、あらまほしき」と、持たない生活を勧めたり、
「人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れむ事こそ、あらまほしけれ」と、俗世間から離れた隠遁生活を称賛している。
でも、ボクはかなりの俗人なので都会暮らしからは抜けられそうもない。
好きな寄席にも行きたいし、映画やコンサートもたくさん観たい。
あちこち散歩して、おいしいものを食べ歩くのも大好きなのだ。
思えば若い頃はモノが増え、暮らしが拡がっていくことを夢見ていた。
でも、いまは物欲はなく、ただただ縮小の時期だ。
齢(よわい)を重ねると生活の澱のようなものが溜まってくる。
その澱のようなものを捨てて、人生の仕上げをしたいのだ。
とにかく身軽になって、いまは生活にも心にもたくさんの余白を作りたい。
本を捨て、雑誌を捨て、靴や衣服を捨て、CDやビデオやDVDを捨て、10年育てた植物を捨て、家電や家具を捨て、キャンプ道具や登山道具を捨てた。
それらはボクの「過ぎた時」でもある。
「過ぎた時」を捨てると、いまの自分にいちばん大切なモノが見えてくる。
ありふれた生活の中に愛おしいものと、愛おしい時間だけがあぶり出されてくる。
きょうもまたボクは何かを捨てるだろう。
もう少しでボクは、「あらまほしき日常」に手が届きそうな気がしている。