東京ベランダ通信

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2019年 02月 23日

チコちゃんに教えてあげたいボクの宝物

わが家は昨年から今年にかけて、物に支配された生活から抜け出すため、断捨離をした。
「住空間に余白がないと心の余裕もできんわい」と考えたのだ。
本、CD、DVD、洋服、食器、家電、家具etcと軽トラ1台分は処分した。

で、ごちゃごちゃしていた家の中が片づいて、気分もスッキリしたのだが、ボクの場合、空間に余白ができると、そこを素敵なもので埋めたくなる悪いクセがあるようだ。
つまり、断捨離の「断」(要らないものが入ってくるのを断つ)、「捨」(不要・不適・不快なものを捨てる)は実行できるのだが、「離」(物への執着から離れる)ができないのだ。

悪いことに最近のお気に入り散歩コースには古道具屋が2軒もある。
で、ついつい吸い寄せられてしまうのだが、そうするとそこで運命の出会いが待っている。
不思議だ。

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今回の出会いは味の素の缶。
世間的にはただの汚い缶なのだが、ボクには宝物だ。

4枚目、5枚目の写真を見て欲しい。
イラストや説明書きにあるようにこの味の素、コンビーフみたいな巻き取り式なのだ。

正しくは「へリングボーン式巻取缶」というらしいが、この方式は1926年(大正15年昭和元年)に採用され、1968(昭和43)年6月に「かぶせ蓋」式に代えられるまで使用されていたようだ。


次に1枚目だ。
「S.SUZUKI&CO;LTD」とある。
そしてその下に見づらいのだが「味の素本舗株式会社鈴木商店」とある。
創業者の鈴木三郎助の名を取ったこの社名は1932年(昭和6年)から使われている。

1940年(昭和15年)に社名は鈴木食料工業株式会社に改称されているので、この缶はそれまでの8年間に輸出用として製造された商品ということだ。

ちなみに味の素の社名が、味の素株式会社になったのは1946年(昭和21年)である。


ところで、敢えて開封しづらい「へリングボーン式巻取缶」にしたのは類似品対策のためだったとか。

「味の素」がだんだん世の中で普及しはじめると、類似品が出始め、それらは意図的に「味の光」「味乃素」「味の王」などとまぎらわしい商品名で販売された。

類似品は国内だけでも35銘柄にのぼっていて、これらの製品は品質的にも問題があり、そのため偽物に絶対すり替えられない巻き取り缶になったのだとか。



錆びた缶も掘っていくとなかなか興味深いものがある。

チコちゃんにも教えてあげたいぞ。


古道具屋から連れて帰ってきたものは他にもある。

がらくたのように見えるが、どれもボクの宝物だ。

てなわけで、断捨(離)で作った折角の余白も、世間的にはがらくたといわれるもので、また埋められていくのだ。

機会があればまた紹介しよう。(いらんか…)


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by novou | 2019-02-23 20:34 | 暮らしを考える | Trackback | Comments(0)
2018年 11月 02日

あらまほしき日常と人生の仕上げ

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「あらまほし」は吉田兼好の『徒然草』によく出てくる言葉だ。

いまの言葉でいうと「こうありたい」とか「望ましい」とか「憧れの」いう意味。

だから、「あらまほしき日常」とは「毎日がこうだったらいいな」とか「憧れていたのはこんな暮らし」ということかな。

人生も終盤にさしかかり、長いこと不自由な入院生活をしていると「あらまほしき日常」とは何だろうと考える。

ボクにとってのあらまほしき日常は、心おだやかに暮らせる家と、季節を感じられるささやかな庭のある暮らしだ。
もちろん、愛する人と愛するものにも囲まれていたい。

兼好法師は「朝夕、無くて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞ、あらまほしき」と、持たない生活を勧めたり、
「人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れむ事こそ、あらまほしけれ」と、俗世間から離れた隠遁生活を称賛している。

でも、ボクはかなりの俗人なので都会暮らしからは抜けられそうもない。
好きな寄席にも行きたいし、映画やコンサートもたくさん観たい。
あちこち散歩して、おいしいものを食べ歩くのも大好きなのだ。

思えば若い頃はモノが増え、暮らしが拡がっていくことを夢見ていた。
でも、いまは物欲はなく、ただただ縮小の時期だ。

齢(よわい)を重ねると生活の澱のようなものが溜まってくる。
その澱のようなものを捨てて、人生の仕上げをしたいのだ。
とにかく身軽になって、いまは生活にも心にもたくさんの余白を作りたい。

本を捨て、雑誌を捨て、靴や衣服を捨て、CDやビデオやDVDを捨て、10年育てた植物を捨て、家電や家具を捨て、キャンプ道具や登山道具を捨てた。

それらはボクの「過ぎた時」でもある。

「過ぎた時」を捨てると、いまの自分にいちばん大切なモノが見えてくる。
ありふれた生活の中に愛おしいものと、愛おしい時間だけがあぶり出されてくる。

きょうもまたボクは何かを捨てるだろう。

もう少しでボクは、「あらまほしき日常」に手が届きそうな気がしている。





by novou | 2018-11-02 10:47 | 暮らしを考える | Trackback | Comments(0)